「すべての人の幸せ」と「社会の平和」の根源である家庭教育の大切さを弘めることや、6児パパの思い描く将来の構想の為に、ブログを始めて半年以上が経ちました。
記事の内容や表現方法、トピックの選定やWEBスキルなど、試行錯誤しながら気が付けば50記事近く執筆してきました。
おかげさまで4月は、『ブログ運営者の3割しか到達できない』と言われている*3000PVを達成することができました♪(*PVとは閲覧してもらったページ数です)
様々なコメントをいただく中で、ある質問にお答えする形で「5児パパの家庭教育研究所」のルーツをご紹介したいと思います。
子育て奮闘中のママです。子育てに悩んでいる時も元気をいただいたり、参考にさせていただき、いつもブログを楽しみに拝見しています。5児パパさんは、どうして家庭教育が大切だと思うのですか?(『あかねのママ』さんより)
あかねのママさん、いつも見ていただきありがとうございます。
このブログのテーマである「家庭教育」を主題としている理由についてはプロフィールの概要欄に簡単にまとめていますが、その理由を語る上で、5児パパの小学校時代のルーツが根源にありました。
6児パパの”不登校”経験
”自主休校”
小学5年生の頃。。。
クラスに障がいを持った同級生Aちゃんがいました。(今思えばヘッドギアを付けた知的障がいのある女の子でした。)
普段は支援学級で過ごすAちゃんは、時々教室に来ていました。
Aちゃんはいつもニコニコしていましたが、どこかクラスメートから嫌煙される雰囲気がありました。
けれど、6児パパが仲良くしていたワンパクな男の子グループにとって、彼女は”明るくて楽しい”友達でした。
一緒に教室でゲームをしたり、冗談を言ったり、支援学級の先生も驚くほど、明るい笑顔をみせるAちゃんとの時間がとても楽しかったのを今でも覚えています。
ある日、いつものように休み時間にAちゃんと一緒に過ごしていると、クラスメートの「THE・優等生」の女の子が先生に告げに行きました。
「男の子たちがAちゃんをいじめてる」
チャイムが鳴って、いつもなら教科書や教材を抱えて入ってくる先生の手元には何もありませんでした。
「みんな、このクラスでAちゃんをいじめている人がいる。これからの時間はホームルームにして『学校裁判』をする」
クラスメートたちは静かにどよめきました。
6児パパたちワンパク男子グループは、目を見合わせて『まさか』と心の中でつぶやきました。
Aちゃんが不在の中で、先生はワンパク男子グループをたたせました。
「みんな、障がいをもっているAちゃんをからかったり、バカにして笑い者にしていいと思うか?」
クラスメートたちは怪訝そうな表情でワンパク男子グループを見ていました。
まさに「寝耳に水」状態の中で、立たされていた友達が言いました。
「先生、俺たちはAちゃんをいじめてなんかいません。友達として一緒に楽しく過ごしていただけです。」
「いじめている人間はみんなそうやって言うんだ。あなたたちは楽しくてもAちゃんはそう思っていないじゃない」
「先生、Aちゃんの話を聞いたんですか?Aちゃんは、いつも俺たちと遊んでいる時、すごく楽しそうに笑っていたんですよ」
「Aちゃんは言葉が上手に話せないんだから、聞いてもわからないだろ。それに『嫌だ』って言えないから笑ってたんじゃないのか」
「いじめをした」前提で話をすすめる先生に従って、クラス中から批判の声があがりました。(ワンパク男子グループとAちゃんの関係性を知るクラスメートはかばってくれましたが・・・)
次の日から、ワンパク男子グループの友達の一人がショックで不登校となりました。
6児パパは1人で職員室に行って担任の先生に抗議しました。
後に分かったことですが、6児パパの通っていた学校は県内でも人権教育を推進しいる学校で、担任の先生は人権教育推進部長だったそうです。
先生は聞く耳も持たずに、最後にこう告げました。
「そんなこと言うなら、もう学校に来るな!!」
子供ながらに6児パパの心の中で、何かが音をたてて壊れるような気持になりました。
「こんな学校で学ぶことなんか一つもないわ!」
独学=家庭学習のはじまり
それから6児パパの不登校、いや”自主休校”の時間が始まりました。
言葉のあやになりますが、当時の6児パパとしては、”学校に行けない”「不登校」ではなく、”自ら学校に行かないという選択をした”「自主休校」だと考えていました。
家族に状況を説明し、当然ながら親も学校との話し合いの場を持ちましたが、6児パパが学校に行ける状況になることはありませんでした。
何も手につかないほど、悔しさと言いようのない怒りを胸に秘め自宅で過ごす日々。
おさめようのない胸の内を、こんな想いでふさぎました。
『学校の先生になって、自分のように悔しい想いをしたり、学校に行けない子供の力になる』
それはどこか意地とも、吐き出しようのない悔しさをエネルギーにかえる方法だったのかもしれません。
それから国語・算数・理科・社会の参考書を買ってもらって、学校で過ごすように時間割を自分でたてました。
朝8:30から60分授業の1時間目が始まって、休み時間や昼食をはさみながら、計6時間の授業を設定し毎日自宅学習を続けました。
学校に通っていた頃は、先生の授業を受ける一方的な勉強がそれほど好きな方ではなかったけれど、分からないところを自分で調べたり学習していけばいくほど、勉強が好きになっていきました。
勉強以外の時間では、兄妹や近所の友達が下校すると、外に出て一緒に遊ぶ。
兄妹が通う小学校の遠足の時期には、母が社会学習と称して、色んな所へ遠出して、6年生の修学旅行では通っていた学校と同じ修学旅行先である広島に、母が引率して連れて行ってくれました。
母は私にとって唯一無二の「母親」であり「先生」でした。
とはいえ、友達がたくさんいたり、大好きなサッカーができる学校が恋しくもあり、兄や妹が登校する姿を羨ましく感じていました。
小学校の卒業を迎え、新しい中学校という環境を待ちわびていましたが、学校への不信がトラウマのように残り、入学式には出席しませんでした。
けれど、中学校から電話での連絡などは何度かあったものの、小学校での”ややこしヤツ”が知れ渡っていたのか、学校からそれ以上のアプローチはありませんでした。
6児パパは淡い夢でも見ていたんだと自分に言い聞かせて、”自主休校”が続きました。
気付いた学習方式
独学で勉強を進めていく中で、学習のある方式に気が付きました。
知識の学習-暗記して記憶に定着する教科ー国語(漢字)・社会・理科(生物)
展開の学習-知識を応用して読解や計算する教科-国語(読解)・数学・理科(物理)
教科に応じて時間や方法を変えて学習を続けました。
語句や事象を暗記する知識の学習は、暗記するものを毎日目を通す学習ができたので学校での学習よりも効率的にすすめることができたのではないかと思います。
例えば、国語の漢字であれば、復習・予習を含め学習する漢字を一覧にしたり、社会の歴史の重要語句や年表などをノートにまとめて整理する。
次にまとめたものを、毎日時間を決めてひたすら”目を通す”ことを習慣にしました。
よく一夜漬けで暗記する為に、集中的な時間で何度も何度もノートに書いて覚えようとする人もいます。
時間がない時は仕方ないかもしれませんが、それよりも短い時間であっても、毎日”目を通す”方が、記憶に定着しやすいのだと感じました。
一方で、知識を応用して読解や計算する展開の学習は、ちょうど縄跳びの技を練習するように、「前飛び」・「後ろ飛び」の応用から「二十飛び」へ発展したり、「二十飛び」+「交差飛び」の応用から「ハヤブサ飛び」へと発展すると言った具合に、一つの技(問題パターン)を習得して応用すれば、次の新たな技(問題)に活かして、また習得することができます。
算数や理科の計算問題など、繰り返して問題を解くトレーニングを続けました。
(けれど答えが明確な知識の学習と違い、展開の学習は、難易度が高く分からない問題はどうすることもできませんでした。その為、自然と知識の学習を得意とする文系となり、今でも数学や物理の計算は苦手です。)
*その時に気付いた学習方式については、改めてまとめていこうと思います。
中学3年生の受験時期を迎えて、模試にチャレンジすると、県内トップ3に入る進学校レベルまでの偏差値がありました。(とはいえ、学校に行っていなかった為、内申点が著しく低かったのですが・・・)
不登校によってもたらされた影響
学校に行かなくても、一定の学力を身に付けて、順風満帆に”自主休校”生活を送っていたかといえばそうではありません。
当時の私は心に闇を抱えていたと思います。
根から明るくユニークな性格であった為、家族の前では明るくふるまっていましたが、家族が寝静まる早朝4時頃、毎日のように家を抜け出して、あてもなく自転車でさまよう日々。
心の中にたまったうっぷんをここでは言い表せないような汚い言葉でノートに書きなぐる。
それでも一線を越えなかったのは、母の存在と、志した意地にも似た夢があったからでした。
そして不登校の経験は6児パパの人生に様々な影響を与えました。
多くの同年代の子供たちと過ごす時間がなかった分、その後の人生の中で、人との関わりに臆病になったり、自分一人の空間を好むようになっていたり。。。
身体面でも、運動場など、広い空間の中で運動をしたり、子供同士で追いかけっこや体育の授業の中で走る機会がなかった為に、おそらく同世代の人よりも肺活量が小さく、今でも長い距離を走ることが苦手です。
6児パパの今とこれから
それから定時制高校へ進学して、引き続き学業と独学を重ねながら、昼間は百貨店の社員食堂で働いて料理を覚えました。
心にいたみを抱える友人たちを募ってボランティア団体を結成して、互いのことを語り合う中で言葉で表現するスキルも身に付けることができました。
また様々な事情から大学への進学を一時断念して、高校卒業後、バックパックを背負いカナダへ放浪の旅に出て、広い視野を持つこともできました。
帰国後、通信制の大学に行き、その過程で6児ママと出会って、気が付けば6人の子宝に恵まれ、現在、障がい福祉の仕事に就いて今に至ります。
『学校の先生になって、自分のように悔しい想いをしたり、学校に行けない子供の力になる』
随分と遠回りをしてきた人生でしたが、最愛の我が子の親となり、大学卒業と教員の夢が目前に来た時、私の夢は変化していました。
これまで遠回りしてきた人生だからこそ、見ることができた景色がありました。
世界中の色んな文化や教育、それぞれの環境の中での苦しさ。
重い障がいを抱えて、物理的にも社会的にも困難な環境の中でも懸命に生きる障がい者の方々。
家庭内での子供の虐待や事件、学校問題など、実際に6人の子供の親となり実感する、決して綺麗ごとや理想論だけではどうにもならない現実。
教師となって苦しむ子供に寄り添うことや、未来を担う子供の教育に携わることが尊いことに変わりありません。
しかし、自分が見えている世界、あるいは自分が携われる範囲は、限られています。
その限られた領域の中で、どれだけ奮闘したとしても、『すべての人』の幸せにはつながることはありません。
だからこそ、変わるべきは環境よりも先に、”人”であることに気が付きました。
もしも、自らの力だけで苦しさから脱することが困難な子供や障がい者の方々に携わる全ての人が、強い責任感と使命感や崇高な志を持つことができたなら。
きっとそうした『すべての人』の環境や幸せは大きく変わるでしょう。
そしてすべての子供や障がい者の方々が幸せだと感じる社会を築くことができたなら、『社会の平和』が実現できるのではないか。
その礎となるのが家庭であるからこそ、未来を担う子供の人格を形成する家庭教育が重要だと考えたのです。
私自身も、私の夢も、まだまだ発展途上です。
人から見れば笑われるような青臭いロマンかもしれません。
けれど、「できないことは何もない。人の可能性は無限にある」が6児パパのモットーです。
これからも悩み、もがきながら、子供に、利用者に、社会に育てられながら、必ず夢を実現します!!
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